ドリップコーヒーが好きだった

 コーヒーメーカーを買った。
長年ドリップにこだわり続けたのに気がつけばもう何年もコーヒーを入れていない。めんどうなのもあるけどインスタントコーヒーの味や香りが不満のない出来で、あえてレギュラー珈琲を淹れるとか考えもしない。
 学生のときに初めてアルバイトした八王子の喫茶店。市内に3つもチェーンをもつ大きな店で、駅前のスクランブル交差点を見下ろすように建つ煉瓦貼りの建物は、田舎から出てきたばかりの小僧っ子を圧倒するには十分すぎた。
駅前だけに忙しく毎日失敗の連続ばかりで、先輩たちの「使えねーな」の口癖を聞かされながら夢中で働いていました。やがて慣れてきてドジばかり踏んでいたことなどなかったようにスイスイスラスラ店内を動き回り、あたふたと動き回っている新人を横目で見ては、「使えねーな」って、さらっと口から出るようになっていきました。カウンターも任されるようになると待望の珈琲淹れです。人間ここまで自惚れられるものかと思うほど自分の淹れた珈琲は世界一と思い込むようになりました。その思いは店を辞めてからもずっと続いたようで、就職してからもドリップで珈琲を淹れ続けました。「布フィルターじゃないと本当の味は出ないんだけどね」なんてわかったような口をきいて、飲まされていた友人や家族の心痛はいかばかりだったか察するにあまりあります。

 インスタントと間違えて買ってきたレギュラーコーヒー、返品なりなんなりできるのに間違いを認めようとしない母は鍋で煮るとかとてつもないことを言い始めます。無論できないことはありませんが、粉も残るしそれほど美味しくなかったはずです。
よし、久しぶりにドリップでたてようか。新しいコーヒーポットにサーバーとドリッパーがいるな、さあネットショッピングの時間だ。

 二日後届いた荷物をいそいそ開けてビニールをやさしく外していきます。あまりの安さについフラフラと買ってしまったピカピカのコーヒーメーカーが顔を出します。安いといっても家の食洗機で実績のある象印製、迷いはありませんでした。早速淹れてみるといい香りが立ち上ってきて、コポコポコポコポと珈琲が落ちてくる音は、コーヒーメーカーでしかありえない日曜の午後的な憩いの音色といった感じがします。
出来上がりをすぐ頂きます。なるほどこれは……普通に美味しいです。実はそれほど味にうるさいわけでもなく、喫茶店のバイトを辞めたあとも、珈琲を飲むのは充実したモーニングのある店か池袋のトースト食べ放題サービス付きの喫茶店だけだから味はわりとどうでもよかった。というよりわかっていたのかどうかも怪しいところなので、新しいコーヒーメーカーでの久しぶりの家珈琲の味わいは、まんぞくまんぞくといったところでした。
このコーヒーメーカは「使えるやつ」だったようです。