学生時代のアパート ② ~白い一日~

 新しいセメントやペンキの匂いってのはいいもんだ。ましてそれを一番に使うことができるってのは人生で何度も体験できることじゃぁない。そのために帰省を遅らせてまでトイレ開通の日を待つ価値はあるのだ。事実、できたてのトイレは乾いたばかりのツルツルに輝くコンクリートの床や、外の光を反射してきらめく壁のタイル。新築の香りに誘われて中へ入る。大のドアを開けるとメッキのレバーを備えた白く輝く便器。今アパートに残っているのは社会人の入居者含め私とK君との3人だけだ。一階と二階の2つずつの大便器を仲よく初流しを体験できる。トイレ解禁の三日後までは東京に残ることを田舎に連絡して解禁日を待っていた。

 残りあと2日か、さわやかな気分で朝を迎える。トイレの前を通るたびに息を止めなくていいんだなぁ、習慣になっていた息を止める仕草を中止して、むしろ深呼吸してみる。さわかな新しいコンクリートとペンキの香りが鼻孔を爽やかに……アレ?おかしい!くさい。まさかと思って個室のドアを開けるとそこにはでんと大きな茶色い物体が鎮座していた。開通は明後日なのに。こんなことをするのはーーK君の部屋のドアを叩いた。
「いやぁすまんすまん。アルプスまで行くのが面倒でよ、流せないのはわかっていたんだが」
爽やかな彼の笑顔にはいつも救われていたのだが、その日ばかりは腹が立ってしょうがなかった。明後日まで待てよと念を押すと息を止めてトイレを駆け抜けた。アルバイトを帰ってくると少しは心が落ち着いていた。まあいい、穢れなき便器はあと3つ残っている。Kくんはすでにひとつ汚しているので私は2つ使うつもりだ。穢れてない方の便器をながめようとドアと開けるとまた茶色い憎むべき物体がある。勘違いかと思って隣をみるとやっぱり今朝と同じものが残っていた。
「せっかくあるんだから使うだろう。どうせあと2日じゃないか」ふてぶてしく言い放つK君に、自分が汚した便器を使えばいいのにと言うと「汚いじゃないか」と返ってくる。自分のだろうと言っても聞く耳をもたない。殴ってやりたいが柔道二段のK君の胸板は私の3倍はある。ケンカになっても止めてくれる人はいない、死を覚悟できる年齢ではないので怒りをぐっとこらえる。
  また一夜明けて最後のアルバイトを終えてアパートへ帰った。翌日は待ちに待ったトイレの開通日なので新品の便器を使ったらそのまま田舎へ帰る予定だった。2階のトイレは2つとも穢されてしまったが一階はまだ無傷だ。まっさらの便器を眺めようと一階のトイレに寄ると不審な臭いが……
またやりやがったKの奴! ノックもせずにKの部屋へ飛び込み激しく非難したが「どうせあと一晩じゃないかうるさいな」ふてぶてしく言い放ってテレビを見続けるK。
 オレは荷物をまとめるとたった一つ残された新品の便器に股がって涙を流しながら用を足した。すべてをKに汚されるくらいならせめて俺の手で、いや尻で?汚した方が便器も喜ぶに違いない。

 ♪まっしろな陶磁器を~眺めては飽きもせず~ かといって触れもせず~
初めて買った中古のレコードは小椋佳の「白い一日」だったことを思い出した。まっ白い陶器が私ので一気に染まっていくのを眺めながら全フレーズを歌いあげるてゆっくりと立ち上がり、一度だけ振り返ってほくそ笑むとそのまま駅へ向かって最終の急行に乗って田舎へ帰った。
たったひとつ残された場所がふさがれているのに気づいたときのKの顔を想像すると笑いがこみあげてしまって、ひくひくニヤついているのを見て対面の乗客がずいぶんと変な顔をしていた。
 
 自宅の汲み取りトイレも卒業してから数年で洋式の水洗へと変わって使う機会はなくなった。今はたとえあの特殊な臭いがしたとしてもポータブルを使用する年寄りがいる家だったりする。いつの日か汲み取りは全滅してしまうのか? それとも文化的歴史遺産として国が市町村が残してみたりするのだろうか。
K君も卒業してからは教師になり、部屋に水洗トイレのあるアパートで生活し始めたようでトイレで人様に迷惑をかけることもないだろう。

 さすがにもう汲み取りではなかろうが、西那須野のひしめき合うアパート群を見ながら住人同士のいろんなせめぎあいがあったりするのだろうかと考えていると住人の一人が外へでてきてタバコを吸い始めた。母がアラブ人と見間違えた居住者は挨拶すると流暢な日本語で答えてくれた。
指値800万で買ったとしても、ここ数年のレントロールを見ると利回りは10%もとれない。サビの浮き出た2階の手すりや壁の傷もチェックして修繕費や経費を計算して丁重にお断りしてアパート群をあとにした。もうこの地でアパートを探すことはやめよう。
 昔、新幹線の中で出会ったキレイなお姉さんが西那須野に住んでいたので、私の中ではキレイなお姉さんのいる街としての認識があった。アパートの出物があると見に来るのはきれいなお姉さんが入居するイメージがあったかもしれない。だが実際はアラブ風なのかもしれない。

 帰りがけに国道沿いで初めて食べた酒粕味噌ラーメンのコクと辛さに衝撃を受けた。この日、西那須野へ来たのはこのラーメンに出会うためだったに違いない。
ー禍福はあざなえる縄の如しーー西那須野では、儲かるアパートも新幹線に乗るきれいなお姉さんに出会うこともなかったが、酒粕味噌ラーメンに会える美味しい街と上書きされた。