中銀カプセルタワービルの思い出

 中銀カプセルタワービル解体の様子をテレビでやっていた。あの丸窓のついた積み木を重ねたような個性的なビルだ。

ついこのあいだ原田ひ香の「おっぱいマンション改修争議」を表紙に見覚えがあると思って手に取って読んだばかりだ。小説自体はつまらなかったが中銀マンションが舞台になっていることに驚いた。

 中銀マンシオンの創業者は地元福島県の出身である。大学卒業時に母が知り合いから地元の村にゴルフ場や老人ケアマンションを建てる予定があるらしいと情報を仕入れて実家から通える範囲だし、そこに就職すればいずれは地元に帰ってこれるのではないかということで「是非に」ということだった。

卒業当時、将来になんの希望もなく適当に金を稼げればいいなとしか考えがなかった俺は、とりあえずの就職ならわりとどこでもよかった。

いまよりははるかに景気のいい時代で、国民みなが将来にわたって給料も株価も土地もどんどん上がり続けることになんの疑いももたなかった頃の話だ。

根拠のない自信でもって、自分はその気になればいつでもどえらいことをやってのけると自信があったから若いうちは勉強の意味で一流企業と言われるところ以外に身を任せるのもいいかなんて今考えると身の程知らずもたいがいにしろといいたくなる。

 就職課に行くとそこへ入社した卒業生もいるようで会社資料もあった。(今でいうFラン大学なので求人が出ているだけでもありがたいのだが、当時はウチの大学に求人を出す会社などたいしたことねーやなんてとんでもないことを考えていた)わずかでも縁があるのなら頑張りなさいと就職課の人に励まされて中銀タワービルへ向かった。

設計の黒川紀章の名前ぐらいは知っていたが、自分がその気になればこれぐらいは設計できるだろうなんてテキトーな自信であふれていたのでそれほどの感動はなかった。むしろこのビルに感心したら負けだなんて思い込みで心がいっぱいだった。とにかく嫌な奴だったの学生時代の俺。

 面接の時にあのカプセルの一室に入ってぼんやり外を眺めていると入ってきたのは40代くらいの女性だった。当時女性管理職はまだまだ珍しい時代だった。なかなか革新的な会社だなと思う反面、もし総務課に配属されたら女の下で働くのはいやだなぁなんて女性蔑視みたいな部分が普通にあった俺。しかも入社するとも決まっていないのに。

それでも積極的に何度も会社訪問して熱意を見せろ、なんて就職のための鉄則みたいな言葉を鵜吞みにして彼女が嫌な顔をするまで何度も訪問した。同じ大学の卒業生の社員にもアポとって面会するも特に質問もなくって会話が続かなくって閉口した。

社長の親戚筋からどのように話が伝わっていたのかわからないが、かなり好意的な丁寧な対応をしてくれたのではなかったか。

にもかかわらず地元への関連会社設立がいつの話かわからないという話が見えてくると内定をもらっていたにもかかわらずあっさりと断ってしまった。

内定を断ったことは今でも後悔しているし申し訳ないことをしたと反省もしている。もっとも俺が入らなかったことはその会社にとってはよかっただろう。今にして思えばだが。

 

 じつのところマンションの販売とか自分にはさっぱり自信がなかったから入社したくなかっただけなのである。へたれなのであった。しかしそんなことはおくびにも出さずに地元就職が最優先という言い訳で最終的にはつまんないところへ就職を決めた。

母は最後まで中銀を断ったことをもったいながっていたようだが、父は地元へ戻れるのならなんでもよかったようで喜んでいた。自分としては実際それほど地元へ戻りたかったかわけでもなく本当のところ東京で過ごしたかったのが本音だ。

ただ地元へ就職すれば地元の友人とも遊べるし実家暮らしで金もかからないし車も買ってもらえるといったつまんない理由だった。本当につまらない男だった学生時代の俺。

 地元へ就職したあとも、いまでいう「まだ本気出してないだけ」状態でいいかげんに過ごしていい加減な人生をすごして今に至る。

まだ「本気出してないだけ」ってのは本気を出しても結果を出せないのが怖いから本気になれないのだってことを最近「二月の勝者」を読んで知った。もっと早く読みたかったわ。半世紀遅かった。

 しかし当時あのまま東京で暮らしていれば違う人生だったのかなとか、当時のトレンディドラマみたいなことがあったかもしれないなんて夢想する。まあ実際のところ面倒なことからは逃げ回って、結局似たような人生を送ってたんだろうけどな。ましてドラマっぽい人生など間違ってもありえなかっただろう。

そんなことが理解できるまで年をくったわけだ。

でも時々そうして「あの時ああしていれば」なんて妄想に入ることが増えたのも年を取った証拠なのだ。