トヨタ・マークⅡが生産終了とな

 50年近い歴史を持つマークⅡもセダン不況の波には勝てずについに生産終了を迎えた。
マークⅡ三兄弟といって販売チャネルごとに中身は一緒でもそれぞれの個性を出した3車種が競うように売れまくっていた。
俺の当時の愛車は4A-Gを積んだカローラセダンだったわけだが、リヤに光る赤いGTのエンブレムをみては煽ってくるマークⅡに何台も遭遇した。いまどきのあおり運転とは違って勝負をかけてくるわけなんだけど1G-GEUと4A-Gでは性能の開きがありすぎて信号のある町中ではひっくり返っても勝負にならない。それでも挑んでくるマークⅡオーナー、わりと年配の人も多いのになんだかなと感じていた。背後から迫るマークⅡをミラーに確認するたび身構えるくせがついた。

 仙台本社の郡山営業所に努めていた頃、社長のマークⅡを運転したことがある。とつぜんふらりと営業所にやってきては「今日は一緒に得意先を廻ろう」などと言って慌てさせた。4月半ばにしては妙に暑い日だった。まだ昼には早いのにアサヒビール園で焼き肉を食べ、なぜか社長はビールをガンガン飲んで私にも飲ませた。「代行頼むからいいよ」社長の言葉を信じてその日は飲んだ。
この先は時効とはいえいろいろ不味いので読まなかったことにしてほしいのだが、この後、社長から運転を命じられた。そんなこともあろうかと飲む量は控えたし、自分のレベルで酔をさます時間はとっていた。だからといって安全とは言い切れないし警察に止められたらアウトの可能性が高い。しかも社長の要求は郡山からいわきまでの高速ドライブだ。東日本大震災のずっと以前、当時まだ原発特需に沸いていた浜通りでの収益が会社の要だった。酔いはさめてても口臭や顔色は大丈夫なのか心配であったし、自分はともかく社長はかなり飲んでいるし時間もそれほどたっていないので得意先にに失礼ではないのかと不思議に感じた。
とにかくその日の社長の言動ははじめからおかしかったのだが、ときにはそんなこともあるのかなと安易に考えていた。当時の磐越道は1車線の区間が多かった。社長はそこをどんどん飛ばせもっと飛ばせと助手席でわめいていた。かるくあしらって流す俺。でもあまりのしつこさに途中で少しだけスピードを出してみることにした。当時の社長の年齢は60代。モータリゼーションが驚異的な発展を遂げるなか、働いてきた世代である。車好きは多く、社長もその例にもれず白いマークⅡはツインターボをチューンナップし、高性能のタイヤにエンジンルームのストラットタワーバーが自慢だった。低速トルクの弱さをカバーした1G-GTEU 24ValveTWINTURBOはダテじゃなく、一気に加速してまたたく間に100km/hを超える。その頃の我が愛車は、なんちゃってツインカムと呼ばれた3S-FE、マニュアルで3速多用してようやく人並みに走るようなエンジンだったので、その圧倒的性能に驚いた。150km/hを超えても社長はもっともっと飛ばせとわめく。それならちょっとだけとアクセルをさらに踏み込む、アラームは鳴りっぱなしだ、車速は200km/h目指して気持ち悪いぐらい伸びていく。とたんに二車線区間は終了した、一気に分離帯の壁が迫ってきて圧迫感ですくむ。200km/h目前にしてたまらずブレーキをかける。車速はすぐに120km/h台にに落ち着いた。「もうこのへんで勘弁してください社長」僅かな時間でヘトヘトになった俺は素直にあやまった。当時の最先端のハイソカー言えども今の車に比べたら安定感はまるで違う。正直恐ろしかった。
「ふん、なんだつまらん…」社長はそうつぶやくとそっぽを向いた。

 ゆっくり走って無事に現地へ着くと、そんなことも忘れたように社長は得意先をまわることもせずに観光をして歩いた。自ら案内をかってでて名所の説明さえ上機嫌でしてくれたのだ。支店に戻ってからことのあらましを店長に話すとしきりに羨ましがっていた。

 会社が不渡りを出したのを知らされたのはそれから半月あとのGW直前だった。高速道路での異常ともいえる社長の表情を思い出した。あれは狂気だったのだ。午前中から酒を飲ませて高速でスピードを出させる、社長は死ぬ気だったのではなかったか。保険金を有効にゲットするには社員を使ったほうが事故でスムーズにいくだろう、そんな考えで残された家族の生活と自分のプライドを守ろうとしたのかもしれない。だとしたら身勝手な男である。もし高速でハンドルを掴まれたりしたら200km/h近いスピードで一気に社長の望む世界へ行ってしまっただろう。彼にはそこまでする勇気がなかったのか。もし俺がもうちょっと馬鹿で、調子づいてスピードを上げ続けていたらと思うと想像するだけで肝が冷たた。

 社長はその後、家も家財もとられどこへ行ったのかもわからない。私物の携帯を仕事に使っていたおかげで連日のように取引先から連絡があったが会社のことに関しては答えようもなかった。こっちが聞きたいくらいだったのだから。社長には突然の倒産と危険な目にあわせた恨みはあるものの今となってはどうでもいいことだ。せめてあの時、俺が事故らなかったおかげで命が助かったと感謝でもしてくれていると良いのだが、多分そんなことはあるまい。

それからしばらくの間はマークⅡを見ると高速道路での社長の狂気が思い出されて鬱になったものだ。

 マークⅡのライバルとされる日産ティアナも日本では販売中止が濃厚だ。ブルーバードマキシマから数えればこっちも40歳くらいにはなるのに、その歴史が終わってしまうのは悲しいかぎりだ。日本だけ4ドアセダンが絶滅危惧種になっているのは納得がいかない。復活の日はいつくるものなのか。