財布を拾って届けるのはいいんだけど

 ああ財布かな?
自転車で走っていると落とし物に出会うことはよくある。車で走れば「あっ」と思ったときはすでに数十メートル過ぎている。戻るのはめんどうだし見間違いだったらバカバカしい。まして近眼老眼が混じってる目じゃまともに見ることさえかなわない。
自転車だと見つけてすぐに止まれる、それでも大概は落とし物じゃなくて捨ててあるものだったり、風雨にさらされてガラクタと化しているものだったり、汚さのあまり拾うのもためらわれるものばかりだ。
今回もスルーしようかと思ったがわりとキレイな長財布であるので少しバックする。2センチほどのマチのあるカーキ色の財布、開けてみると郵便局の通帳とキャッシュカードが見える。ほかに千円札が一枚。
届けようかどうしようか迷う。
だが通帳が入っているので無視はできない。ちょっとめんどうだったのだが、1月としては暖かい朝だったので交番まで走ることにした。
自分が落としたら当然届けてほしいし、届けるのが当然なのだが躊躇したのはわけがある。現金が千円だけだからお礼は100円だからとか考えたわけじゃない。確認してないが通帳の中には十桁の数字が並んでいる可能性だって無くはないのだ。ただクレジットカードも無いし、札は千円札一枚だけというのが気になった。通帳だけ入れておくセカンド財布って可能性も高いのだが、すでに他の人に抜き取られたあとだったら厄介だ。
 昔、仙台の問屋で働いていた頃のことだ。消費者を招待しての大きな展示会を開催していたときだ。会場で販売応援中に尻ポケットの長財布がじゃまだったのと暑いのとで、上着に財布を入れて商品のディスプレイの陰に隠しておいたのである。展示会は盛況で財布のことも忘れて接客をこなして数時間後、一段落してから財布を取り出して愕然とした。
有名温泉街での展示会、夜は何が起こるかわからない。担当の顧客に出かけようと誘われれば当然同行しなければいけないし、軍資金が必要だ。それが苦でないというか楽しみにしていたくらい若かった。ATMがそんじょそこらにある時代じゃなかった、5万くらいじゃちょっと不安、10万じゃ多すぎる。間を取っての8万円を入れていた。出張時に余分に入れておくのは当然だった。それが中身を見ると2万円と千円札がわずかしかなかった。勘違いや記憶違いではないかと何度も確認した。どうやら万札を二枚だけ残して抜いていったらしい。もしかしたら自分が接客した客の中に盗んだ人間がいるかもしれないと考えると悔しかった。
会社主催の消費者展の初日に盗難騒ぎを起こして、警察を呼ぶわけにもいかない。上司には因果を含められて、騒ぎにすることはあきらめた。自分の保身しか考えないクズのような所長と揉め事は一切感知せずの部長のセットじゃどうにもならなかった。「どうせ盗られるなら、わしにくれればよかったのに」とブサイクな顔をますます醜悪にゆがめて下衆な言葉を吐く所長とへらへら笑う部長。クズはどこまでクズである。
6万円ぐらいなんとかなる。出張を増やしたり成績を上げたりと、飲みに行く回数を減らしたり入れるボトルのランクを下げたりと、ちょっと頑張ればそのぐらいはすぐ取り返しのつく時代だった。それにしてもあきらめるには長いことかかった。中学生の時に西武デパートで3千円入りの財布を落とした時ぐらいのショックだった。

 クレカも持たず、現金が千円札一枚は今どきあまりにも不自然。
「抜き取るような人は届けたりしませんよ」警官はそう言ってくれるものの、落とし主にはこちらの名前を伏せることにしてもらった。代わりに落とし主があらわれてもお礼はもらえないわけだが変に疑いを持たれるよりはマシである。
サインをして交番をあとにする。
いつか海水浴場でスマホの落とし主が拾った若者に一人づつ数千円を渡すシーンを番組でやってた。いまどき拾うならスマホの方が効率いいよな。今度はスマホを拾うことにしよう。

 そういえばクレジットカードを拾って、系列の銀行へ届けたときも銀行本店からお礼の電話があっただけだった。コイツもカード単体だけ落ちていたから怪しさ満点だし不正利用されてないか心配で届けるのがためらわれたっけ。悪用されてないのはすぐわかって疑われることもなかったのだが銀行のポケットティッシュひとつくらいくれてもよさそうな気がした。たいてい「拾った方は連絡してください(薄謝進呈)」とあるのに「薄謝」って電話一本か。地銀のクレジット会社はやっぱり地味だよな。

 次の日、コンビニで銀行に入金して自転車に乗ろうとしたら手袋が片方なかった。
「あの、これ」おばさんとお姉さんの中間くらいの女性が眼の前に軍手を差し出した。ATMで順番を待ってた人だ。
「ああ、どうも」って受け取ると女の人は店内へ消えたけど、やっぱり軍手の一割相当渡すべきだったかなぁ。そんなことを考えながら、しばしぼんやり立っていた。