学生時代のアパート ① ~臭うトイレ~

 アパートを買ったとたん、排水が詰まったの換気扇が回らんの、ドアが壊れてるの、あげくにエアコンやらなにやら矢継ぎ早に不調を訴え始めて怒涛のごとく苦情が舞い込んだ。管理会社がすべて手配はしてくれるものの業者に支払うのはもちろん私だ。毎月増えるばかりの通帳を眺めてはホクホクしてるだけの生活を夢見ていたのに、想定外の出費が続くのに心配になり先行きの不安をつのらせて悶々としていた。それがやっと落ち着いてきて立ち直りかけた時に退去者がでて室内リフォームにまた想定外の出費がかかって中古アパートなんて買うもんじゃないなって激しく後悔しまくった。
こうなったらイヤになるほど儲かる物件を買ってやろうと栃木まで物件を探しに足を伸ばしたら西那須野は激戦区のようで、紹介された2K✕4戸のアパートの家賃は築古とはいえ23000円。私がウン十年前に学生時代に借りてた豊島園裏の1DK(共同トイレ風呂なし)のアパートの賃貸料と同じだ。風呂トイレの3点セットがついてて新幹線駅からそこそこなのに安すぎじゃないか。激戦区なんで…いいわけするような不動産屋さんの声を聞きながら、練馬の前に住んでた西八王子の18000円(風呂なし日当たり無し共同トイレ)のアパートをふと思い出した。

 ネットも無い時代だ。入学手続きの時に大学に掲示してある入居者募集チラシを見てとりあえず見に行った一軒目。西八王子駅前で待ち合わせた大家さんは2kmの距離を感じさせまいとしたためか、その年齢と短軀から想像できないほど早足で「現役合格ですかすごいですな」Dランなのに見え透いたおべんちゃらを矢継ぎ早に喋りながら一緒に来た父が倒れそうになるほどせかせか歩いた。曇り空のもと、半地下みたいな一室に連れ込まれて「これでも天気の良い日はけっこう日差しがあるんですよ」ウソ八百を並べ立てる大家に疲れ切った父はうなずくだけで「ここでいいじゃないか決めよう、よそを回っても同じことだ。そうだろ?」いつもの調子で畳み込んだ。私が死ぬほど後悔するのことになるのも知らずに。
4畳半に半畳の押し入れと小さなコンロのおける流し台。高い擁壁しか見えない窓の外には体重さえかけなければ落ちない錆びた手すり。それでもはじめての一人暮らしは嬉しく部屋も気に入ってた。暗い廊下をくぐり抜け出口付近にある共同の汲み取りトイレを除けばだが。当時でも珍しかったのかもしれないが東京への幻想がいっぺんに崩れた。
 「トイレなんて学校でするだろ」友人はそう言った。学校紹介のアパートだけあって同じ大学の学生がほとんど。1年生が7割ほどなのでしょっちゅう誰かの部屋に溜まってはくだらないおしゃべりをしていた。トイレの話題になるとたいていそういう答えだった。大きい方をもよおしてくると臭いに耐えながら限界まで息を止めて汲み取り便所に入るか、さわやかで清潔で都会的な水洗トイレを求めて小さな旅に出るか、便秘症や尿毒症になる危険をかえりみずに我慢するか選択にせまられていた。私の田舎の自宅は汲み取りだった。それだけに東京は水洗トイレばかりだとの幻想を抱いて上京したのに神も仏もいなかった。他人のが混ざり合う汲み取りが嫌なのもあるが。家族以外の人のいるところで大きい方をするのが苦痛だった。シャイだったのだ。今ほどコンビニが蔓延していなかった時代なので、気軽にトイレを借りられるのは10分歩いた先のスーパーアルプスか、駅前の忠実屋のトイレしか選択肢がなかった。スーパーアルプスは夜遅くまで営業して便利なのでよく利用させてもらっていた。トイレで同じアパートの連中と顔を合わすことも多く、汲み取りの悲劇を最小限に済ませられたのはこのスーパーのおかげである。日々の買い物もほとんどアルプスで済ませていたので無くてはならない店だった。慣れるにしたがって学校よりも忠実屋よりも落ち着けるようになり、そのトイレで過ごした時間は誰よりも多かったのではなかったか、我が部屋の一部みたいな感覚だった。和式スタイルで正面壁に見える落書きさえ全個室のを暗記していた。新たな落書きが増えると消してやったりするのもお礼の気持ちからだった。とにかく学生生活になくてはならないものだったので丁重に大事に使っていた。


 それでもやはり素敵なトイレのあるアパートに住みたかった。まして日の当たらない穴蔵生活はあまりにも暗すぎる青春と感じて引っ越しを考えていたのだが、時代の変化に合わせたのか、大家がついに水洗トイレへの変更を決意した。2年生の夏だったか、学生のいなくなる夏季休暇中を利用してトイレ大改造計画が始まった。工事に合わせてほとんどの学生が田舎へ帰ったがアルバイトに専念する宮城のK君と、水洗トイレ新設工事の一部始終を眺めたい私とふたりだけが残った。